立春も過ぎたと言うのにまだまだ寒い日が続いています。今年の冬はなんだか厳しいですね。
立春の前日は「節分」ですね。「鬼は〜外、福は〜内」というアレです。スタッフの一人がかわいらしい鬼のケーキを買ってきてくれまして、美味しく頂きました。
昔々、今は三重県の一部である志摩国に九鬼氏と言う海賊一家があり、時代の波に乗って最後はお大名にまで上り詰めるのですが(注1)、その九鬼氏の所領があった三田市(兵庫県)では九「鬼」さんをディスるのはどうかなぁと言うことで、「鬼は〜外」は言わず「福は〜内」だけ叫ぶんだそうです。でも確かに、冷静に考えてみて「福」が「内」であって欲しいことは分かるとしても、なぜ「鬼」は「外」? つまり「鬼」の存在を肯定したうえで「自分の生活環の外に居ろ!」と言うのはどう言うことでしょう? そもそも「鬼」ってなに?
「鬼」と言えば、有名な昔話に「桃太郎」がありますよね。実はこのお話、昔小さい子にうろ覚えで話をしていた際に「??」となったことがあったんですよね。
どんぶらこどんぶらことやってきた桃から生まれた桃太郎くんがすくすく育ってたくましい若者になりました。まあ、ここまでは拾得物横領の疑いはあるとしてもまずはめでたい話ですよね。しかしこの桃太郎くん、何を思ったか唐突に鬼を退治することにしたんですね。で、「鬼」たちの罪状はなんであるかという点について全く吟味検討することもなく攻撃し、打ち破って宝物を手に入れ、その本来の所有者が誰であったかと考えることもなく、ただ分捕って帰ってきてしまうと言う…。これって普通に考えて強盗殺人、軽くても横領でしょ。訳わかりません。
「鬼」と言う言葉は、日本書紀にも出てくる古い言葉で、佐渡国にやってきた漁労民族の人たちを、既に農耕化していた原地の日本人が「得体の知れない気味の悪い奴ら」と忌み嫌い「鬼」と呼んだと言うエピソードが初めてだそうです。その後仏教の影響で地獄の番人のイメージになって、現在の「鬼」の形になっていったそうですが、確かに「鬼火(注2)」と言う言葉もあるように、「得体の知れない何か」を「鬼」と呼ぶ文化はありそうですね。しかし発光体ならともかく、相手が同じホモサピエンスである場合、こちらが「得体の知れない気味の悪い奴ら」と感じると言うことは、相手方もまたこちらのことを「得体の知れない気味の悪い奴ら」と感じている訳であって、彼我の視点の差というものを全く考えず「桃太郎」を痛快な物語として語り継いできた性根に、自粛警察を生み出す基となる日本人の底知れない闇を感じてしまいます。
しかし昨今は自粛警察も少し活動を自粛しているような。こういう揺れ返し的に我に返る合理性…と言えば聞こえは良いですが、要するに信念のないヘタレぶりが、僕が日本人をこよなく愛するところではありますけどね。
早く春来ないかな〜
♪ 鬼の目の 涙は如何に 人の世の 闇底深し 今も昔も
(大伴ヤキモチ)
注1)高級胡麻油の九鬼産業はここの末裔です。
注2)「おにび」と読みます。人魂(ひとだま)のことです。